2024年7月31日キングダム徹底解説(玄人編),キングダム豆知識仮面,山の民,岐山,楊端和,無弋爰剣,,秦王,穆公,羌族,西戎

みなさんこんにちは!
キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

世間ではキングダムの実写映画『大将軍の帰還』が盛り上がっている中だと思いますが、個人的にはアプリゲーム『キングダム頂点(いただき)』8/8にリリースされることとなりましたので、そちらに注目がいっている状況です。

一応リリースされたら自身のYouTubeチャンネルで生配信をやってみようかなーと思っている今日この頃です。

さて、今回は、みなさんも大好き『楊端和(ようたんわ)』率いる『山の民』について徹底解説していきたいと思います。
『山の民は実在するのか?』みたいなミーハーな内容ももちろん解説していきますが、こちらのブログは非常にニッチな内容を取り扱っておりますので、『山の民はなぜ仮面をつけているのか?』にも言及していきたいと思います。

こちらのブログを見て頂ければ、今後よりキングダムを楽しんでいくための予備知識がどんどんつきますので、是非最後までご覧いただけたら幸いです。

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【キングダム解説/考察】#3 誰も知らない豆知識・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

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山の民のモデルについて

山の民のモデルを語るにあたり、キーマンとなるのが、キングダム作中でも出てくる、『穆公(ぼっこう)』という、史実にも実在した秦国の王様になります。
ちなみに、『穆公(ぼっこう)』は第9代秦王で嬴政は第31代秦王なので、嬴政の22代前の秦王ということになります。
年代でいうとキングダムから約400年前の人物ですかね。
この穆公が仲良くしていた異民族が山の民のモデルとなっております。

山の民のモデルの異民族について

この異民族の正体なんですが、秦の西側に住んでいた『西戎(せいじゅう)』と呼ばれる遊牧民で、その中でも、山の民のモデルとなったのは、咸陽から数十キロ西の『岐山』という地域に住んでいた数百人程度の部族と言われております。
もちろん最初から『穆公』と仲が良かったわけではなく、この部族と『穆公』の間には語り継がれる面白いエピソードがあります。
その名も『岐下食善馬者三百人』と言います。
せっかくの機会ですので、『岐下食善馬者三百人』のエピソードについて簡単に解説したいと思います。

『岐下食善馬者三百人』のエピソードについて

かつて繆公は、愛馬を見失ったことがありました。
見つけた時は、山の麓に暮らす者たちが、繆公の愛馬を捕まえて、皆で食べてしまったところでした。
その数三百人。
役人が捕らえて罰しようとすると、
繆公は「君子は畜生を殺されただけで人を傷つけてはいけない。余は善馬を食べてよい酒を飲まないと健康を損ねると聞いている」
と言って、三百人全員の罪を赦し、逆に馬肉に合う酒を振る舞ったそうです。
このことを恩に感じて、この三百人の部族は、その後、秦軍に従軍するようになり、繆公が窮地に陥った韓原の戦いという戦争では、命を投げうって繆公を助けた

ということで、これが山の民のモデルとなっております。

山の民と命名した理由について

これまでの説明で分かったと思いますが、『山の民』のモデルは岐山に住んでいたあくまで『遊牧民族(西戎)』ですので、あえて原先生が『山の民』と命名したのには少々疑問を感じざるを得ません
これは推測も交えてになりますが、まず岐山という地域、地名に山が入ってるだけあって、どちらかというと山岳地帯になります。
もちろん平地の方が多いんですが、南の方にいくと秦麗山脈と呼ばれる海抜2,000m級の山々がひしめいております。
おそらくキングダムで描かれていた『山の民』の居住地はこの秦麗山脈内にあったのだろうと予想されます。

とはいえ、遊牧民族が平地でなくあえて山に住んでいたというのはやはり謎が残りますので、こちらについては、岐山は基本的に秦の支配地域でしたので、よその部族が普通の場所に住むことは許されなかったのだろうと考えております。
それでなくても山の民のモデルとなった部族は秦王『穆公』に対して無礼を働いた人たちですので、厳しい山岳地帯に追いやられたとしても全く不思議ではありません
それでも秦王に何かあったらすぐに駆け付けることができる岐山に住んだというのは、『山の民』の『穆公』に対する忠誠心の表れだと私は考えております。

山の民が仮面をつけている理由について

キングダムに登場する『山の民』ですが、みなさん顔が見えない様に、謎な仮面をつけてますよね。
もちろんこちらも原先生の気まぐれではなく、何かの逸話をモチーフにした設定だと考えられます。
これから紹介する逸話は、これが山の民の仮面のモチーフと断言できるものではございませんが、非常に関係性が疑われる逸話ですので、是非お読み頂きたく思います。
本来はすごく長い物語なんですが、ブログという性質上、重要な部分だけを切り取ってまとめさせていただきました。

仮面のモチーフとされる逸話について

『西戎(せいじゅう)』の中には秦から追われた一族の逸話が残っております。
その名を『羌族(きょうぞく)』といって、この『羌族(きょうぞく)』を率いていたリーダーの名前が『無弋爰剣(むよくえんけん)』といいます。
逸話では、無弋爰剣は元々、秦の奴隷だったんですが、逃げる際に岩窟に逃げ込んで難を逃れたと言われております。
また、無弋爰剣は岩窟の外に出た後、鼻を削がれた女と野で出会い、夫婦となったと言われており、この女はその容貌を恥じて髪の毛で顔を隠していたため、後に羌人はこれを風習としたそうです。

山の民のモデルとなった部族

おそらく、山の民のモデルとなった部族は、ただの『西戎(せいじゅう)』ではなく、その中でも『羌族(きょうぞく)』だった可能性が高いんじゃないかなと考えております。
『羌族(きょうぞく)』は上記逸話のとおり、風習により顔を髪で隠しておりましたので、それを普通に表現すると『貞子』になってしまうので、原先生は仮面をつけるという表現に変えたんではないかなと個人的に推測しております。

さらにいうと、山の民の王『楊端和』をあえて女性として描いたのは、この逸話の元となったのが女性だったから、なんて話ももしかしたらあるかもしれません。

※いつか原先生にお会いする機会があったら聞いてみたいです。

エピローグ

今回は、『山の民』の徹底解説として、『山の民』のモデルとなった遊牧民族、原先生が遊牧民族を『山の民』と命名した理由、そして、『山の民』が仮面をつけている理由について解説してまいりました。
これだけ知ってれば、山の民のことはマスターしたも同然だと思います!!

次回につきましては、信の初陣となった『蛇甘平原の戦い』は史実上存在したのか?について考察していきたいと思います。
『蛇甘平原の戦い』は一般的には、史実上、存在しない戦いとされていますが、その当時の史実における前後関係を考えると、なかったとも言えない戦いだったと個人的には考えております。

キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#3 誰も知らない豆知識・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

2024年4月18日キングダム徹底解説(基礎編),キングダム豆知識中国史,中華統一,函谷関,咸陽,四夷,城戸村,無国籍地帯,王騎将軍,,秦王

みなさんこんにちは!キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
とうとうアニメ5期も終わりまして、個人的には衝撃的な終わり方をしたなと思ってます。
あのような秦と斉の密会は本当にあったのでしょうか
(なんて話もいつかブログでやっていきたいと思います笑。)

さて、今回は『【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国時代の地理(基礎編)』と題しまして、みなさん意外と知らない春秋戦国時代の地理的な豆知識(例えば咸陽が不落の城と言われた理由など)について解説していきたいと思います。

キングダムのストーリーの中には、地理的な知識が前提となっているシーンもちらほら散見されることから、今後キングダムをより楽しむためにも、是非最後までご覧いただけたら幸いです。

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秦の位置について

春秋戦国時代の地図については、様々な説が存在します。
なにせ戦乱の世ですので、刻一刻、国境が変わったりするわけです。
さらにいえば、現代のように国際法があるわけでもないので、秦の抱えている地図と趙が抱えている地図とでは、領土の広さが違ったりするわけです。

ただし、比較的分かりやすく説明するのであれば、黄河の西側が『』、黄河の東側に『』『』『』が縦に並んでおり、そのさらに東に『』『』、そして、これら6国を支えるかのように南側に大国が控えている感じです。

個人的には、春秋戦国時代には固定された国境という概念はなくお互いの軍がにらみ合っている場所が国境であり、軍が押し込んだり、押し込まれたりすることで、国境は絶えず変化していたのではないかと推測してます。

ちなみに秦よりもさらに西側はどうなっていたかというと、異民族が生活しておりました。所謂、『東夷(とうい)』『北狄(ほくてき)』『西戎(せいじゅう)』『南蛮(なんばん)』(総称:四夷)と呼ばれていた遊牧民族でして、キングダムでいうと『戎翟公(じゅうてきこう)』などがこちら出身と考えられます。
中華の歴史においては、『四夷』は野蛮人として蔑まれていましたが、最新の研究では、『四夷』の方が、中華の国家よりも文明が進んでいた可能性が示唆されており、もしかしたら、キングダムの時代に西側諸国ではもっと高度な戦いが繰り広げられていたのかもしれません。

もし仮に西側諸国の文明が中華よりも進んでいたのならば、中華西端に位置していた秦は、他の国よりも一早く、強力な武器や戦術を手に入れることができたと思いますので、戦国七雄の中で圧倒的に強かった理由にも頷けます。

秦の首都『咸陽』の立地条件について

秦の首都『咸陽』はキングダムの作中でも不落の城として紹介されております。
これは城壁が高いとかそういうことではなくて、周囲の地形に秘密がありました。
実は、秦麗山脈と呼ばれる、海抜3,000m級の山々が『咸陽』を取り囲んでおり、攻め側からすると、一方向(東側)からしか『咸陽』を攻めることが出来ませんでした。
そしてその東側にかの有名な『函谷関』が聳え立っていたことから、守る側が有利となり、不落の城の完成というわけです。

正確に言うと、秦の関所東西南北、『函谷関』以外にも『武関』『散関』『蕭関』というものがありましたが、山の中だったり、地形的に大軍が行軍できる環境になかったため、大規模な戦闘は必ず『函谷関』で行われていたということになります。
(キングダムでも描かれていましたが、大規模でなければ、南側の武関から抜けられたことは何度もあります。)
実際のところは秦麗山脈だけでなく、秦の国境付近は軒並み高い山がひしめいており、秦は全体的に、高い山に囲まれた盆地の国と思っていただければ、イメージに近いと思います。

ちなみに『咸陽』は元から秦の首都だったわけではなく、紀元前350年に、その時の秦王『孝公(第25代)』が櫟陽(れきよう)から遷都したことで首都となりました。
他の国の首都に比べると比較的新しい時期に建築されたことから、城壁や城内の設備も華やかだったと言われております。

咸陽から国境までの距離について

キングダムでよく他国が国境を割って侵入してくるシーンがありますが、国境から咸陽まで大体何キロくらいあるかみなさんご存じですか。
ちなみに『函谷関』から首都『咸陽』までは、直線距離で約200km程度あります。

春秋戦国時代には完璧な地図が存在しないことから、推測にはなりますが、一番近い国境からでも、首都『咸陽』までは、最低でも300kmはあったと思われます。
その途中に山々があり、それを避けながら行軍しなければならなかったことを考えると、首都を攻めようと思ったら、それなりの準備と資源が必要になるはずですね。
逆もまたしかりで、キングダムの作中の描写で、首都『咸陽』から王騎将軍が悠々と出陣するシーンがありましたが、あそこから300km以上も行軍するとなると、果てしなさを感じます。

そして、キングダムをよくよく観察してると、王騎の咸陽からの出撃シーンは全員騎馬隊でしたが、例えば、アニメ5期の黒羊丘の戦いにおける紀彗軍の出撃シーンは歩兵がかなり混ざってましたので、もしかしたら、原先生は地理的な距離感をしっかり把握したうえで、出撃シーンを描いているのかもしれません。(だとしたら恐るべし!)

エピローグ

このように地理的な観点からキングダムをみていくと、また違った楽しみ方ができるのではないかと思い、今回、僭越ながら基礎的(一般的)な知識を解説させていただきました。

次回につきましては、玄人編として、『咸陽』の気候や、『城戸村』の位置などについて解説していきたいと思います。キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#2 誰も知らない豆知識(城戸村)・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

2024年4月11日キングダム徹底解説(玄人編),キングダム豆知識中国史,中華統一,史記,,咸陽,城戸村,嬴政,戦国七雄,戦国策,春秋戦国時代

みなさんこんにちは!キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
アニメ5期(黒羊丘の戦い/桓騎vs紀彗)も終盤となっておりますので(このブログが公開されたタイミングでは終わってるかも・・・)、なかなかエキサイティングできる内容だったのではないかと思っております。

アニメが原作に結構追いついてきているので、アニメ6期については、2025年かな、などと勝手に考えております。

さて、今回は『【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国(玄人編)』と題しまして、前回ブログで説明した内容から、さらに掘り下げまして、誰も知らないようなニッチなネタ(豆知識)を解説していきますので、是非最後までご覧いただければと思います。

今回のブログの内容に関わる動画

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キングダムオープニングナレーションについて

まずはこちらをご覧ください。

『古代中国。聖者の時代は終わりを告げ、人間の欲望は解放されていた。戦乱の嵐が500年にわたって吹き荒れ、100を超えた国々は7つに淘汰された。』

アニメ『キングダム』でおなじみの最初のナレーションですね。
一遍普通の文章が並んでるようにも見えますが、前半部分によくよく見てみると意味不明なキーワードが存在することに気付きます。

『聖者の時代』こいつですね!
実は漫画ですと、『聖者の刻』といった表現になってたりするんですが、『聖者の時代』とは一体何を指している言葉なのでしょうか?

今回はこちらをテーマに春秋戦国時代を解剖していきたいと思います。
『聖者の時代』を理解するためには、まずは春秋戦国時代の時代背景をより深く考察する必要があります

春秋戦国時代よりも前の時代について

春秋戦国時代をより深く理解しようとした際に、その前後にある時代も含めて考察するというのは1つの方法だと思います。
ちなみに学生時代に世界史を履修されている方には懐かしいお話になってしまうかもしれませんが、古代中国における時代遷移は次の通りです。

(紀元前2070年~1600年)→(紀元前1600年~1046年)→(紀元前1046年~770年)→春秋戦国時代(紀元前770年~221年)』そして、の時代を経て、三国時代へ突入していきます。

夏よりも前の時代については、もはや中国の神話に基づいた時代とされていることから、ここでは割愛させていただきます。
そして実はという話にはなりますが、上記で紹介した『夏』という王朝については、歴史家の中でも存在したかしなかったかで、論争が起こっている王朝になります。
結論からいうと、中国はあったと主張していますが、日本含め諸外国の歴史家は認めていない王朝になります。

ちなみに・・・

何がなされれば、王朝として存在が証明されるのかという話なんですが、出土した遺物(物的証拠)歴史書(史記など)に記載された内容がどのような形でもいいので一致して初めて存在が認められます。
残念ながら『夏』については、書物の中には登場するんですが、遺物として明確に紐づけられているものがないので、伝説の王朝扱いとなっているわけです。
※殷は出土した遺物に書かれてあった王の名前と史記に書かれている王の名前が一致したことから、実在の王朝として認定されました。
※また、ネット上では『殷(商)』という表記を見たことがある方がいらっしゃるかもしれませんが、これは中国において、王朝の名前を、創始者の王がどの地に封じられた(領地として治めていた)かで決めるというルールを設けており、『殷』の創始者は『商』という地に封じられたことから、実際には『商』が正しい王朝名となります。

さて、既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、古代中国における時代の名前は基本的に、その当時中華を治めていた王朝や国の名前から取られています
なぜか、『春秋戦国時代』は前回ブログでも解説しましたが、『春秋』『戦国策』という2つの歴史書の名前から取られているわけです。

『春秋戦国時代』が、他の時代と違って、特別な呼称を与えられている理由はなんなのでしょうか
次の章で解説していきたいと思います。

春秋戦国時代の名前が歴史書から取られている理由

結論から申し上げますと、非常にシンプルな理由になっておりまして、名前をつけるだけの王朝が実質存在していなかったからなんですね。
なにせ春秋戦国時代は、キングダムの世界でもおなじみの『戦国七雄』がしのぎを削っていた戦乱の時代なので、王様はある意味たくさんいらっしゃいました
キングダムの主人公『嬴政(第31代秦王)』もその1人になります。

一応『周』という、春秋戦国時代の1つ前の時代にあった王朝はそのまま存続はしていたんですが、自分に仕えていた一諸侯に戦争で負けたことで実質的な支配権を失いました
この瞬間、ある意味ですが『周』も戦乱の世における一国に成り下がったというわけです。

ちなみに・・・

ちなみに一国に成り下がった『周』も春秋戦国時代の中で慎ましく生きていたんですが、紀元前249年(キングダムの始まる4年前)にかの有名な秦の宰相『呂不韋』にとうとう滅ぼされてしまうんですね。
『周』は春秋戦国時代に入ったタイミングで内紛が起こり、本家の『西周』と分家の『東周』に分裂しております。呂不韋が紀元前249年に滅亡させたのは分家の『東周』の方であり、実は本家の『西周』は既に紀元前256年に、かの有名な六大将軍『摎』に攻められ実質的に滅亡しています。

原先生がキングダムの中で『周』を極力描かないようにしているのは、もちろん『嬴政』『信』を主人公としたため、年代がズレているからというのもありますが、それよりも、『周』が一応王朝として中華を支配しており、この本家・分家の話がややこしすぎたんで描かなかったんじゃないかなーと勝手に予想してます。

聖者の時代(キングダムopナレーション)の意味について

そろそろ本題に入りたいと思います。

聖者の時代についてですが、ナレーションの文章を解読すると、とりあえず春秋戦国時代の前の時代を指していることが分かります。
となると年表から察するに『周』の時代ということになるかと思いますが、周の時代は聖人君主が闊歩した時代だったということなんでしょうか

もちろんそれは違います。
周の統治の方法は、『封建制度』と呼ばれているもので、諸侯に対し、全体権力者である『周』がある一定地域の統治権を認めることで、諸侯たちがそれぞれの領地を治めることで成立していました
この制度のおかげで、春秋戦国時代と比較すると、直接、戦争などで領地を取り合うようなことは起きづらかったのではと考えられてます。

それでも、諸侯たちは少しでも自分の利権を増やすために、『周』に色々な献上品を渡したり、隣国と戦争したりはしていました。
とても聖者と言えるような方々ではなかったと思います。
しかし、そんな彼らですが、現在の歴史研究では、実はとある理論(宗教)を信奉していたのではないかと言われています。

それがこちらです。

『一族郎党皆殺しは絶対に行ってはならない。
一族郎党皆殺しを行ったものは末代まで呪われる』

その後の中国の歴史を考えるとにわかには信じがたい理論にはなりますが、この考え方があったからこそ、国の数が100を超えたという風に言われております。
(ナレーションでもしっかりその点には触れられてます。)

したがって、『聖者の時代』とは、周の時代、人々が『一族郎党皆殺し』を禁としていた時代、仮に戦争をしたとしても、最後は殺さずに人を生かした時代を指していたというわけです。

原先生はキングダムの中では『周』について一切触れておりませんが、ナレーションの冒頭で、直接的な国名は出していないものの、明らかに『周』を意識した単語を出すことで、『周』のことは当然理解しているとメッセージ発信されているので(と私は考えておりますので)、これはさすがと言うほかありません!!
そんな原先生の描くキングダムも当然、考察しがいのある深いストーリーなんだろうなーと勝手に確信している次第です。

エピローグ

今回のお話はここまでとさせていただいて、次回『咸陽』『城戸村』を中心に春秋戦国時代を『地理的』な側面から解剖していきたいと思います。
キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#1 誰も知らない豆知識・小ネタ※史実(春秋戦国時代)