キングダム徹底解説(玄人編),キングダム豆知識中国史,咸陽,城戸村,太原,嬴政,,漢陽城,,秦麗山脈,蛇甘平原

みなさんこんにちは!
キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
2024年夏にとうとうキングダムの新作アプリが登場するということで、その名も『キングダム頂点(ITADAKI)』と言います。
もしかしたら、私が運営しているYoutubeチャンネルでゲーム実況なんてやっちゃうかもしれません笑。

さて、今回は『【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国時代の地理(玄人編)』と題しまして、みなさん意外と知らない春秋戦国時代の地理的な豆知識(例えば咸陽の地形や城戸村の位置)などについて解説していきたいと思います。
キングダムのストーリーの中には、地理的な知識が前提となっているシーンもちらほら散見されることから、今後キングダムをより楽しむためにも、是非最後までご覧いただけたら幸いです。

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咸陽の地形について

現在の咸陽市については、たくさんの高層ビルが立ち並ぶ大都市となっております。
人口は500万人を超え、中国の中でも比較的大きい都市と言えるのではないでしょうか。

一方でキングダムで描かれている咸陽は、広大な平野の中にぽつんと聳え立つ、高い城壁に囲まれた要塞都市となってます。
残念ながらその当時の咸陽城は秦が滅亡する際に、漢に焼き払われたことから、実際の風景は遺物から推察される想像上のものとなりますが、華やかなものであったことは間違いありません

咸陽の地形については、過去のブログでも少し触れましたが、周囲を高い山々が囲み天然要塞として名高いわけですが、あまり注目されてない下の方(地面)はどんな感じになっていたのでしょうか?

実は咸陽は地質学的に超特殊な地域となっておりまして、ものすごく分かりやすくいうと段々畑のような地形になっていたと言われております。
決して平坦な荒野のような地域ではありませんでした。

その当時の記録は残っておりませんが、現在では、咸陽の中で一番高い地域は海抜1,885m、低い地域で海抜362mとなっており、これは山岳地帯だからという理由ももちろんありますが、ある特殊な土のせいでもあります。
黄土と言われている土で、その名の通り黄ばんだ砂が堆積したものですが、中国北西部の砂漠地帯から風に巻き上げられた砂塵がこの地に降り積もり分厚い黄土の層を作りました
黄土は基本的には固い土なのですが、水には非常に弱く、雨や洪水のあとには、ぐにゃぐにゃとなり、それが固まって、でこぼこの地形を作ったと言われております。

すなわち・・・

咸陽の周りの地形は、キングダムで描かれているような平坦な荒野ではなく、黄土高原と呼ばれている高低差の激しいでこぼこした地形だったということになります。

この事実も咸陽城が不落の城と位置付けられた一つの理由だと、ブログ主は考えております。

咸陽の気候について

キングダムの中では、四季はあまり描かれていないように感じますが、咸陽の実際の気候はどのようなものだったのでしょうか
約2,500年前なので、当然現在の気候とは違うものだとみなさん思われると思いますが(現代の地球は温暖化と言われてますので)、実は過去の地球では現代よりも気温が上昇した時代がありました

とはいえ、約2,500年前は地球全体が寒冷期と言われており、現代よりも2,3度は気温が低かったのではないかと推測されてます。
現代の咸陽は夏で最高気温が32度程度、冬で最低気温が-3度程度ですので、キングダムの時代の咸陽の冬は結構雪が降るような世界観だったんじゃないかなーと個人的には考えております。

ちなみに・・・

日本の中で、その当時の咸陽の気候に一番近そうな地域を探してみたら、現在の緯度よりも少し北側で、山に囲まれた盆地になりますので、『山形(山形盆地)』がそれに当てはまるのではないかと思います。
現代の山形に住んでみたら、もしかしたらその当時の咸陽の気分を若干味わうことができるのかもしれません笑。

ちなみに秦国は南北に長い領土を持っていたことから、例えば、北方にある『太原』などは豪雪地帯だったに違いありません

また、次の単元でも出てきますが、おそらく太原よりもさらに北にあったであろう『城戸村』については、もはや北海道並みの気候だったと推測されますので、信と漂のあのかっこうはもはや正気の沙汰ではなかったとブログ主は勝手に考えております。

城戸の位置について

『城戸村』の正確な位置についてはもちろん公表されておりませんので、推測の域を脱しませんが、キングダムの作中の情報をもとにすると、ある程度『城戸村』の位置を特定することができます

特定に必要な情報は次のとおりです。

①趙および魏との国境に近い
②大きな川が近くに流れている
③遠くに山楽と荒野が見える。

①趙および魏との国境に近い

まずは、①ですが、キングダムのアニメ第1話で、信と漂が歩いていける距離感の位置で趙と秦が小競り合いをしているシーンがありました。
この時期に趙が秦の領土を脅かしたなどの史実はありませんので、当然国境付近で戦っていたと思われます
つまり、城戸村から趙と秦の国境には歩いていける距離ということになります。
ちなみに趙と秦が隣接している地域は北東側にしかありませんので、必然的に『城戸村』は秦の北東部にある村となります。
さらに、国境に近かったかは分かりませんが、信が初めて戦場に出る『蛇甘平原の戦い(魏と秦の戦い)』では、『城戸村』からも徴兵されていましたので、徴兵できる距離感に『城戸村』はあったことになります。

つまり、『城戸村』は秦の北東部の中でも魏に近くないといけませんので、南側ということが分かります。

②大きな川が近くに流れている

次に②ですが、こちらもキングダムの序盤になりますが、信と嬴政が出会った小屋の近くには大きな川が流れていました
秦の北東部にある大きな川といえば、これは当然黄河となります。
さらに途中で川が分岐していた描写もありましたので、黄河の支流が存在する地域と考えられますので、これだけでも『城戸村』の位置はそうとう絞り込むことができます。

③遠くに山楽と荒野が見える。

最後に③なんですが、城戸村から見ると、山がすぐ近くにあるというよりは、遠くにうっすら見えるような描写となっておりました。
咸陽を囲む秦麗山脈だと思ってますが、秦麗山脈はある一定距離北東に伸びて行って、そこから太原を超えると開けた荒野となっております。

城戸村の位置は・・・

すなわち、ここまでの情報を全てくみ取ると、『城戸村』は、秦の北東部、太原よりもさらに北に位置し、趙の国境付近で黄河の支流がある地域となり、現代の地図でその近辺を探してみると『城戸村』に極めて近い名前の村が存在します。

その名も『城壕村』といい、もちろん偶然かもしれませんが、あまりの名前の酷似に、ブログ主としては、原先生はここから『城戸村』と命名したのではないかと勝手に推測しております。

エピローグ

このように地理的な観点からキングダムをみていくと、また違った楽しみ方ができるのではないかと思い、今回、僭越ながら少し玄人向けの解説をさせていただきました。

次回につきましては、春秋戦国時代において、『下僕から将軍になることは本当に可能だったのか?』について考察していきたいと思います。

キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#2 誰も知らない豆知識(城戸村)・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

2024年4月18日キングダム徹底解説(基礎編),キングダム豆知識中国史,中華統一,函谷関,咸陽,四夷,城戸村,無国籍地帯,王騎将軍,,秦王

みなさんこんにちは!キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
とうとうアニメ5期も終わりまして、個人的には衝撃的な終わり方をしたなと思ってます。
あのような秦と斉の密会は本当にあったのでしょうか
(なんて話もいつかブログでやっていきたいと思います笑。)

さて、今回は『【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国時代の地理(基礎編)』と題しまして、みなさん意外と知らない春秋戦国時代の地理的な豆知識(例えば咸陽が不落の城と言われた理由など)について解説していきたいと思います。

キングダムのストーリーの中には、地理的な知識が前提となっているシーンもちらほら散見されることから、今後キングダムをより楽しむためにも、是非最後までご覧いただけたら幸いです。

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秦の位置について

春秋戦国時代の地図については、様々な説が存在します。
なにせ戦乱の世ですので、刻一刻、国境が変わったりするわけです。
さらにいえば、現代のように国際法があるわけでもないので、秦の抱えている地図と趙が抱えている地図とでは、領土の広さが違ったりするわけです。

ただし、比較的分かりやすく説明するのであれば、黄河の西側が『』、黄河の東側に『』『』『』が縦に並んでおり、そのさらに東に『』『』、そして、これら6国を支えるかのように南側に大国が控えている感じです。

個人的には、春秋戦国時代には固定された国境という概念はなくお互いの軍がにらみ合っている場所が国境であり、軍が押し込んだり、押し込まれたりすることで、国境は絶えず変化していたのではないかと推測してます。

ちなみに秦よりもさらに西側はどうなっていたかというと、異民族が生活しておりました。所謂、『東夷(とうい)』『北狄(ほくてき)』『西戎(せいじゅう)』『南蛮(なんばん)』(総称:四夷)と呼ばれていた遊牧民族でして、キングダムでいうと『戎翟公(じゅうてきこう)』などがこちら出身と考えられます。
中華の歴史においては、『四夷』は野蛮人として蔑まれていましたが、最新の研究では、『四夷』の方が、中華の国家よりも文明が進んでいた可能性が示唆されており、もしかしたら、キングダムの時代に西側諸国ではもっと高度な戦いが繰り広げられていたのかもしれません。

もし仮に西側諸国の文明が中華よりも進んでいたのならば、中華西端に位置していた秦は、他の国よりも一早く、強力な武器や戦術を手に入れることができたと思いますので、戦国七雄の中で圧倒的に強かった理由にも頷けます。

秦の首都『咸陽』の立地条件について

秦の首都『咸陽』はキングダムの作中でも不落の城として紹介されております。
これは城壁が高いとかそういうことではなくて、周囲の地形に秘密がありました。
実は、秦麗山脈と呼ばれる、海抜3,000m級の山々が『咸陽』を取り囲んでおり、攻め側からすると、一方向(東側)からしか『咸陽』を攻めることが出来ませんでした。
そしてその東側にかの有名な『函谷関』が聳え立っていたことから、守る側が有利となり、不落の城の完成というわけです。

正確に言うと、秦の関所東西南北、『函谷関』以外にも『武関』『散関』『蕭関』というものがありましたが、山の中だったり、地形的に大軍が行軍できる環境になかったため、大規模な戦闘は必ず『函谷関』で行われていたということになります。
(キングダムでも描かれていましたが、大規模でなければ、南側の武関から抜けられたことは何度もあります。)
実際のところは秦麗山脈だけでなく、秦の国境付近は軒並み高い山がひしめいており、秦は全体的に、高い山に囲まれた盆地の国と思っていただければ、イメージに近いと思います。

ちなみに『咸陽』は元から秦の首都だったわけではなく、紀元前350年に、その時の秦王『孝公(第25代)』が櫟陽(れきよう)から遷都したことで首都となりました。
他の国の首都に比べると比較的新しい時期に建築されたことから、城壁や城内の設備も華やかだったと言われております。

咸陽から国境までの距離について

キングダムでよく他国が国境を割って侵入してくるシーンがありますが、国境から咸陽まで大体何キロくらいあるかみなさんご存じですか。
ちなみに『函谷関』から首都『咸陽』までは、直線距離で約200km程度あります。

春秋戦国時代には完璧な地図が存在しないことから、推測にはなりますが、一番近い国境からでも、首都『咸陽』までは、最低でも300kmはあったと思われます。
その途中に山々があり、それを避けながら行軍しなければならなかったことを考えると、首都を攻めようと思ったら、それなりの準備と資源が必要になるはずですね。
逆もまたしかりで、キングダムの作中の描写で、首都『咸陽』から王騎将軍が悠々と出陣するシーンがありましたが、あそこから300km以上も行軍するとなると、果てしなさを感じます。

そして、キングダムをよくよく観察してると、王騎の咸陽からの出撃シーンは全員騎馬隊でしたが、例えば、アニメ5期の黒羊丘の戦いにおける紀彗軍の出撃シーンは歩兵がかなり混ざってましたので、もしかしたら、原先生は地理的な距離感をしっかり把握したうえで、出撃シーンを描いているのかもしれません。(だとしたら恐るべし!)

エピローグ

このように地理的な観点からキングダムをみていくと、また違った楽しみ方ができるのではないかと思い、今回、僭越ながら基礎的(一般的)な知識を解説させていただきました。

次回につきましては、玄人編として、『咸陽』の気候や、『城戸村』の位置などについて解説していきたいと思います。キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#2 誰も知らない豆知識(城戸村)・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

2024年4月11日キングダム徹底解説(玄人編),キングダム豆知識中国史,中華統一,史記,,咸陽,城戸村,嬴政,戦国七雄,戦国策,春秋戦国時代

みなさんこんにちは!キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
アニメ5期(黒羊丘の戦い/桓騎vs紀彗)も終盤となっておりますので(このブログが公開されたタイミングでは終わってるかも・・・)、なかなかエキサイティングできる内容だったのではないかと思っております。

アニメが原作に結構追いついてきているので、アニメ6期については、2025年かな、などと勝手に考えております。

さて、今回は『【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国(玄人編)』と題しまして、前回ブログで説明した内容から、さらに掘り下げまして、誰も知らないようなニッチなネタ(豆知識)を解説していきますので、是非最後までご覧いただければと思います。

今回のブログの内容に関わる動画

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キングダムオープニングナレーションについて

まずはこちらをご覧ください。

『古代中国。聖者の時代は終わりを告げ、人間の欲望は解放されていた。戦乱の嵐が500年にわたって吹き荒れ、100を超えた国々は7つに淘汰された。』

アニメ『キングダム』でおなじみの最初のナレーションですね。
一遍普通の文章が並んでるようにも見えますが、前半部分によくよく見てみると意味不明なキーワードが存在することに気付きます。

『聖者の時代』こいつですね!
実は漫画ですと、『聖者の刻』といった表現になってたりするんですが、『聖者の時代』とは一体何を指している言葉なのでしょうか?

今回はこちらをテーマに春秋戦国時代を解剖していきたいと思います。
『聖者の時代』を理解するためには、まずは春秋戦国時代の時代背景をより深く考察する必要があります

春秋戦国時代よりも前の時代について

春秋戦国時代をより深く理解しようとした際に、その前後にある時代も含めて考察するというのは1つの方法だと思います。
ちなみに学生時代に世界史を履修されている方には懐かしいお話になってしまうかもしれませんが、古代中国における時代遷移は次の通りです。

(紀元前2070年~1600年)→(紀元前1600年~1046年)→(紀元前1046年~770年)→春秋戦国時代(紀元前770年~221年)』そして、の時代を経て、三国時代へ突入していきます。

夏よりも前の時代については、もはや中国の神話に基づいた時代とされていることから、ここでは割愛させていただきます。
そして実はという話にはなりますが、上記で紹介した『夏』という王朝については、歴史家の中でも存在したかしなかったかで、論争が起こっている王朝になります。
結論からいうと、中国はあったと主張していますが、日本含め諸外国の歴史家は認めていない王朝になります。

ちなみに・・・

何がなされれば、王朝として存在が証明されるのかという話なんですが、出土した遺物(物的証拠)歴史書(史記など)に記載された内容がどのような形でもいいので一致して初めて存在が認められます。
残念ながら『夏』については、書物の中には登場するんですが、遺物として明確に紐づけられているものがないので、伝説の王朝扱いとなっているわけです。
※殷は出土した遺物に書かれてあった王の名前と史記に書かれている王の名前が一致したことから、実在の王朝として認定されました。
※また、ネット上では『殷(商)』という表記を見たことがある方がいらっしゃるかもしれませんが、これは中国において、王朝の名前を、創始者の王がどの地に封じられた(領地として治めていた)かで決めるというルールを設けており、『殷』の創始者は『商』という地に封じられたことから、実際には『商』が正しい王朝名となります。

さて、既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、古代中国における時代の名前は基本的に、その当時中華を治めていた王朝や国の名前から取られています
なぜか、『春秋戦国時代』は前回ブログでも解説しましたが、『春秋』『戦国策』という2つの歴史書の名前から取られているわけです。

『春秋戦国時代』が、他の時代と違って、特別な呼称を与えられている理由はなんなのでしょうか
次の章で解説していきたいと思います。

春秋戦国時代の名前が歴史書から取られている理由

結論から申し上げますと、非常にシンプルな理由になっておりまして、名前をつけるだけの王朝が実質存在していなかったからなんですね。
なにせ春秋戦国時代は、キングダムの世界でもおなじみの『戦国七雄』がしのぎを削っていた戦乱の時代なので、王様はある意味たくさんいらっしゃいました
キングダムの主人公『嬴政(第31代秦王)』もその1人になります。

一応『周』という、春秋戦国時代の1つ前の時代にあった王朝はそのまま存続はしていたんですが、自分に仕えていた一諸侯に戦争で負けたことで実質的な支配権を失いました
この瞬間、ある意味ですが『周』も戦乱の世における一国に成り下がったというわけです。

ちなみに・・・

ちなみに一国に成り下がった『周』も春秋戦国時代の中で慎ましく生きていたんですが、紀元前249年(キングダムの始まる4年前)にかの有名な秦の宰相『呂不韋』にとうとう滅ぼされてしまうんですね。
『周』は春秋戦国時代に入ったタイミングで内紛が起こり、本家の『西周』と分家の『東周』に分裂しております。呂不韋が紀元前249年に滅亡させたのは分家の『東周』の方であり、実は本家の『西周』は既に紀元前256年に、かの有名な六大将軍『摎』に攻められ実質的に滅亡しています。

原先生がキングダムの中で『周』を極力描かないようにしているのは、もちろん『嬴政』『信』を主人公としたため、年代がズレているからというのもありますが、それよりも、『周』が一応王朝として中華を支配しており、この本家・分家の話がややこしすぎたんで描かなかったんじゃないかなーと勝手に予想してます。

聖者の時代(キングダムopナレーション)の意味について

そろそろ本題に入りたいと思います。

聖者の時代についてですが、ナレーションの文章を解読すると、とりあえず春秋戦国時代の前の時代を指していることが分かります。
となると年表から察するに『周』の時代ということになるかと思いますが、周の時代は聖人君主が闊歩した時代だったということなんでしょうか

もちろんそれは違います。
周の統治の方法は、『封建制度』と呼ばれているもので、諸侯に対し、全体権力者である『周』がある一定地域の統治権を認めることで、諸侯たちがそれぞれの領地を治めることで成立していました
この制度のおかげで、春秋戦国時代と比較すると、直接、戦争などで領地を取り合うようなことは起きづらかったのではと考えられてます。

それでも、諸侯たちは少しでも自分の利権を増やすために、『周』に色々な献上品を渡したり、隣国と戦争したりはしていました。
とても聖者と言えるような方々ではなかったと思います。
しかし、そんな彼らですが、現在の歴史研究では、実はとある理論(宗教)を信奉していたのではないかと言われています。

それがこちらです。

『一族郎党皆殺しは絶対に行ってはならない。
一族郎党皆殺しを行ったものは末代まで呪われる』

その後の中国の歴史を考えるとにわかには信じがたい理論にはなりますが、この考え方があったからこそ、国の数が100を超えたという風に言われております。
(ナレーションでもしっかりその点には触れられてます。)

したがって、『聖者の時代』とは、周の時代、人々が『一族郎党皆殺し』を禁としていた時代、仮に戦争をしたとしても、最後は殺さずに人を生かした時代を指していたというわけです。

原先生はキングダムの中では『周』について一切触れておりませんが、ナレーションの冒頭で、直接的な国名は出していないものの、明らかに『周』を意識した単語を出すことで、『周』のことは当然理解しているとメッセージ発信されているので(と私は考えておりますので)、これはさすがと言うほかありません!!
そんな原先生の描くキングダムも当然、考察しがいのある深いストーリーなんだろうなーと勝手に確信している次第です。

エピローグ

今回のお話はここまでとさせていただいて、次回『咸陽』『城戸村』を中心に春秋戦国時代を『地理的』な側面から解剖していきたいと思います。
キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#1 誰も知らない豆知識・小ネタ※史実(春秋戦国時代)