【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国(玄人編)

みなさんこんにちは!キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。
アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
アニメ5期(黒羊丘の戦い/桓騎vs紀彗)も終盤となっておりますので(このブログが公開されたタイミングでは終わってるかも・・・)、なかなかエキサイティングできる内容だったのではないかと思っております。
アニメが原作に結構追いついてきているので、アニメ6期については、2025年かな、などと勝手に考えております。
さて、今回は『【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国(玄人編)』と題しまして、前回ブログで説明した内容から、さらに掘り下げまして、誰も知らないようなニッチなネタ(豆知識)を解説していきますので、是非最後までご覧いただければと思います。
今回のブログの内容に関わる動画
※文字は読みづらいと思うそこのあなた!Youtubeでも当ブログの内容(簡易版)は公開しておりますので、是非そちらをご覧ください。
【今回のブログに纏わる動画】
【キングダム解説動画(再生リスト)】
キングダムオープニングナレーションについて
まずはこちらをご覧ください。
『古代中国。聖者の時代は終わりを告げ、人間の欲望は解放されていた。戦乱の嵐が500年にわたって吹き荒れ、100を超えた国々は7つに淘汰された。』
アニメ『キングダム』でおなじみの最初のナレーションですね。
一遍普通の文章が並んでるようにも見えますが、前半部分によくよく見てみると、意味不明なキーワードが存在することに気付きます。
『聖者の時代』←こいつですね!
実は漫画ですと、『聖者の刻』といった表現になってたりするんですが、『聖者の時代』とは一体何を指している言葉なのでしょうか?
今回はこちらをテーマに春秋戦国時代を解剖していきたいと思います。
『聖者の時代』を理解するためには、まずは春秋戦国時代の時代背景をより深く考察する必要があります。
春秋戦国時代よりも前の時代について
春秋戦国時代をより深く理解しようとした際に、その前後にある時代も含めて考察するというのは1つの方法だと思います。
ちなみに学生時代に世界史を履修されている方には懐かしいお話になってしまうかもしれませんが、古代中国における時代遷移は次の通りです。
『夏(紀元前2070年~1600年)→殷(紀元前1600年~1046年)→周(紀元前1046年~770年)→春秋戦国時代(紀元前770年~221年)』そして、秦と漢の時代を経て、三国時代へ突入していきます。
夏よりも前の時代については、もはや中国の神話に基づいた時代とされていることから、ここでは割愛させていただきます。
そして実はという話にはなりますが、上記で紹介した『夏』という王朝については、歴史家の中でも存在したかしなかったかで、論争が起こっている王朝になります。
結論からいうと、中国はあったと主張していますが、日本含め諸外国の歴史家は認めていない王朝になります。
何がなされれば、王朝として存在が証明されるのかという話なんですが、出土した遺物(物的証拠)と歴史書(史記など)に記載された内容がどのような形でもいいので一致して初めて存在が認められます。
残念ながら『夏』については、書物の中には登場するんですが、遺物として明確に紐づけられているものがないので、伝説の王朝扱いとなっているわけです。
※殷は出土した遺物に書かれてあった王の名前と史記に書かれている王の名前が一致したことから、実在の王朝として認定されました。
※また、ネット上では『殷(商)』という表記を見たことがある方がいらっしゃるかもしれませんが、これは中国において、王朝の名前を、創始者の王がどの地に封じられた(領地として治めていた)かで決めるというルールを設けており、『殷』の創始者は『商』という地に封じられたことから、実際には『商』が正しい王朝名となります。
さて、既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、古代中国における時代の名前は基本的に、その当時中華を治めていた王朝や国の名前から取られています。
なぜか、『春秋戦国時代』は前回ブログでも解説しましたが、『春秋』と『戦国策』という2つの歴史書の名前から取られているわけです。
『春秋戦国時代』が、他の時代と違って、特別な呼称を与えられている理由はなんなのでしょうか。
次の章で解説していきたいと思います。
春秋戦国時代の名前が歴史書から取られている理由
結論から申し上げますと、非常にシンプルな理由になっておりまして、名前をつけるだけの王朝が実質存在していなかったからなんですね。
なにせ春秋戦国時代は、キングダムの世界でもおなじみの『戦国七雄』がしのぎを削っていた戦乱の時代なので、王様はある意味たくさんいらっしゃいました。
キングダムの主人公『嬴政(第31代秦王)』もその1人になります。
一応『周』という、春秋戦国時代の1つ前の時代にあった王朝はそのまま存続はしていたんですが、自分に仕えていた一諸侯に戦争で負けたことで実質的な支配権を失いました。
この瞬間、ある意味ですが『周』も戦乱の世における一国に成り下がったというわけです。
ちなみに一国に成り下がった『周』も春秋戦国時代の中で慎ましく生きていたんですが、紀元前249年(キングダムの始まる4年前)にかの有名な秦の宰相『呂不韋』にとうとう滅ぼされてしまうんですね。
『周』は春秋戦国時代に入ったタイミングで内紛が起こり、本家の『西周』と分家の『東周』に分裂しております。呂不韋が紀元前249年に滅亡させたのは分家の『東周』の方であり、実は本家の『西周』は既に紀元前256年に、かの有名な六大将軍『摎』に攻められ実質的に滅亡しています。
原先生がキングダムの中で『周』を極力描かないようにしているのは、もちろん『嬴政』と『信』を主人公としたため、年代がズレているからというのもありますが、それよりも、『周』が一応王朝として中華を支配しており、この本家・分家の話がややこしすぎたんで描かなかったんじゃないかなーと勝手に予想してます。
聖者の時代(キングダムopナレーション)の意味について
そろそろ本題に入りたいと思います。
聖者の時代についてですが、ナレーションの文章を解読すると、とりあえず春秋戦国時代の前の時代を指していることが分かります。
となると年表から察するに『周』の時代ということになるかと思いますが、周の時代は聖人君主が闊歩した時代だったということなんでしょうか。
もちろんそれは違います。
周の統治の方法は、『封建制度』と呼ばれているもので、諸侯に対し、全体権力者である『周』がある一定地域の統治権を認めることで、諸侯たちがそれぞれの領地を治めることで成立していました。
この制度のおかげで、春秋戦国時代と比較すると、直接、戦争などで領地を取り合うようなことは起きづらかったのではと考えられてます。
それでも、諸侯たちは少しでも自分の利権を増やすために、『周』に色々な献上品を渡したり、隣国と戦争したりはしていました。
とても聖者と言えるような方々ではなかったと思います。
しかし、そんな彼らですが、現在の歴史研究では、実はとある理論(宗教)を信奉していたのではないかと言われています。
それがこちらです。
『一族郎党皆殺しは絶対に行ってはならない。
一族郎党皆殺しを行ったものは末代まで呪われる』
その後の中国の歴史を考えるとにわかには信じがたい理論にはなりますが、この考え方があったからこそ、国の数が100を超えたという風に言われております。
(ナレーションでもしっかりその点には触れられてます。)
したがって、『聖者の時代』とは、周の時代、人々が『一族郎党皆殺し』を禁としていた時代、仮に戦争をしたとしても、最後は殺さずに人を生かした時代を指していたというわけです。
原先生はキングダムの中では『周』について一切触れておりませんが、ナレーションの冒頭で、直接的な国名は出していないものの、明らかに『周』を意識した単語を出すことで、『周』のことは当然理解しているとメッセージ発信されているので(と私は考えておりますので)、これはさすがと言うほかありません!!
そんな原先生の描くキングダムも当然、考察しがいのある深いストーリーなんだろうなーと勝手に確信している次第です。
エピローグ
今回のお話はここまでとさせていただいて、次回は『咸陽』や『城戸村』を中心に春秋戦国時代を『地理的』な側面から解剖していきたいと思います。
キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)
それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません