2024年7月31日キングダム徹底解説(玄人編),キングダム豆知識仮面,山の民,岐山,楊端和,無弋爰剣,,秦王,穆公,羌族,西戎

みなさんこんにちは!
キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

世間ではキングダムの実写映画『大将軍の帰還』が盛り上がっている中だと思いますが、個人的にはアプリゲーム『キングダム頂点(いただき)』8/8にリリースされることとなりましたので、そちらに注目がいっている状況です。

一応リリースされたら自身のYouTubeチャンネルで生配信をやってみようかなーと思っている今日この頃です。

さて、今回は、みなさんも大好き『楊端和(ようたんわ)』率いる『山の民』について徹底解説していきたいと思います。
『山の民は実在するのか?』みたいなミーハーな内容ももちろん解説していきますが、こちらのブログは非常にニッチな内容を取り扱っておりますので、『山の民はなぜ仮面をつけているのか?』にも言及していきたいと思います。

こちらのブログを見て頂ければ、今後よりキングダムを楽しんでいくための予備知識がどんどんつきますので、是非最後までご覧いただけたら幸いです。

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【キングダム解説/考察】#3 誰も知らない豆知識・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

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山の民のモデルについて

山の民のモデルを語るにあたり、キーマンとなるのが、キングダム作中でも出てくる、『穆公(ぼっこう)』という、史実にも実在した秦国の王様になります。
ちなみに、『穆公(ぼっこう)』は第9代秦王で嬴政は第31代秦王なので、嬴政の22代前の秦王ということになります。
年代でいうとキングダムから約400年前の人物ですかね。
この穆公が仲良くしていた異民族が山の民のモデルとなっております。

山の民のモデルの異民族について

この異民族の正体なんですが、秦の西側に住んでいた『西戎(せいじゅう)』と呼ばれる遊牧民で、その中でも、山の民のモデルとなったのは、咸陽から数十キロ西の『岐山』という地域に住んでいた数百人程度の部族と言われております。
もちろん最初から『穆公』と仲が良かったわけではなく、この部族と『穆公』の間には語り継がれる面白いエピソードがあります。
その名も『岐下食善馬者三百人』と言います。
せっかくの機会ですので、『岐下食善馬者三百人』のエピソードについて簡単に解説したいと思います。

『岐下食善馬者三百人』のエピソードについて

かつて繆公は、愛馬を見失ったことがありました。
見つけた時は、山の麓に暮らす者たちが、繆公の愛馬を捕まえて、皆で食べてしまったところでした。
その数三百人。
役人が捕らえて罰しようとすると、
繆公は「君子は畜生を殺されただけで人を傷つけてはいけない。余は善馬を食べてよい酒を飲まないと健康を損ねると聞いている」
と言って、三百人全員の罪を赦し、逆に馬肉に合う酒を振る舞ったそうです。
このことを恩に感じて、この三百人の部族は、その後、秦軍に従軍するようになり、繆公が窮地に陥った韓原の戦いという戦争では、命を投げうって繆公を助けた

ということで、これが山の民のモデルとなっております。

山の民と命名した理由について

これまでの説明で分かったと思いますが、『山の民』のモデルは岐山に住んでいたあくまで『遊牧民族(西戎)』ですので、あえて原先生が『山の民』と命名したのには少々疑問を感じざるを得ません
これは推測も交えてになりますが、まず岐山という地域、地名に山が入ってるだけあって、どちらかというと山岳地帯になります。
もちろん平地の方が多いんですが、南の方にいくと秦麗山脈と呼ばれる海抜2,000m級の山々がひしめいております。
おそらくキングダムで描かれていた『山の民』の居住地はこの秦麗山脈内にあったのだろうと予想されます。

とはいえ、遊牧民族が平地でなくあえて山に住んでいたというのはやはり謎が残りますので、こちらについては、岐山は基本的に秦の支配地域でしたので、よその部族が普通の場所に住むことは許されなかったのだろうと考えております。
それでなくても山の民のモデルとなった部族は秦王『穆公』に対して無礼を働いた人たちですので、厳しい山岳地帯に追いやられたとしても全く不思議ではありません
それでも秦王に何かあったらすぐに駆け付けることができる岐山に住んだというのは、『山の民』の『穆公』に対する忠誠心の表れだと私は考えております。

山の民が仮面をつけている理由について

キングダムに登場する『山の民』ですが、みなさん顔が見えない様に、謎な仮面をつけてますよね。
もちろんこちらも原先生の気まぐれではなく、何かの逸話をモチーフにした設定だと考えられます。
これから紹介する逸話は、これが山の民の仮面のモチーフと断言できるものではございませんが、非常に関係性が疑われる逸話ですので、是非お読み頂きたく思います。
本来はすごく長い物語なんですが、ブログという性質上、重要な部分だけを切り取ってまとめさせていただきました。

仮面のモチーフとされる逸話について

『西戎(せいじゅう)』の中には秦から追われた一族の逸話が残っております。
その名を『羌族(きょうぞく)』といって、この『羌族(きょうぞく)』を率いていたリーダーの名前が『無弋爰剣(むよくえんけん)』といいます。
逸話では、無弋爰剣は元々、秦の奴隷だったんですが、逃げる際に岩窟に逃げ込んで難を逃れたと言われております。
また、無弋爰剣は岩窟の外に出た後、鼻を削がれた女と野で出会い、夫婦となったと言われており、この女はその容貌を恥じて髪の毛で顔を隠していたため、後に羌人はこれを風習としたそうです。

山の民のモデルとなった部族

おそらく、山の民のモデルとなった部族は、ただの『西戎(せいじゅう)』ではなく、その中でも『羌族(きょうぞく)』だった可能性が高いんじゃないかなと考えております。
『羌族(きょうぞく)』は上記逸話のとおり、風習により顔を髪で隠しておりましたので、それを普通に表現すると『貞子』になってしまうので、原先生は仮面をつけるという表現に変えたんではないかなと個人的に推測しております。

さらにいうと、山の民の王『楊端和』をあえて女性として描いたのは、この逸話の元となったのが女性だったから、なんて話ももしかしたらあるかもしれません。

※いつか原先生にお会いする機会があったら聞いてみたいです。

エピローグ

今回は、『山の民』の徹底解説として、『山の民』のモデルとなった遊牧民族、原先生が遊牧民族を『山の民』と命名した理由、そして、『山の民』が仮面をつけている理由について解説してまいりました。
これだけ知ってれば、山の民のことはマスターしたも同然だと思います!!

次回につきましては、信の初陣となった『蛇甘平原の戦い』は史実上存在したのか?について考察していきたいと思います。
『蛇甘平原の戦い』は一般的には、史実上、存在しない戦いとされていますが、その当時の史実における前後関係を考えると、なかったとも言えない戦いだったと個人的には考えております。

キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#3 誰も知らない豆知識・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

キングダム徹底解説(玄人編),キングダム豆知識下僕,信賞必罰,兵役,大将軍,春秋戦国時代,,,農民兵,

みなさんこんにちは!
キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ5期も終わり、世間では一瞬キングダムの話題が遠ざかるのかと思いきや、7月12日から上映が開始される実写映画『大将軍の帰還』もあり、まだまだ世間では注目を集めている状況です。(ゲームの方は相変わらずリリースされませんが・・・)

実写映画主演の山崎賢人さんが、日本人初の『The Best from the East Award』を受賞したのも一キングダムファンとして嬉しい限りです。

さて、今回は、キングダムの主人公『信』は最終的に『大将軍』になるはずなんですが、そもそも春秋戦国時代に『下僕』から『将軍(大将軍)』になるのは可能だったのか?について史実を踏まえながら考察していきたいと思います。

こちらのブログを見て頂ければ、今後よりキングダムを楽しんでいくための予備知識がどんどんつきますので、是非最後までご覧いただけたら幸いです。

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春秋戦国時代の兵役について

春秋戦国時代の兵役事情については、前半の『春秋時代』と後半の『戦国時代』で大きく違うと考えられております。

『春秋時代』の兵役事情

実は春秋時代には農民は基本的には兵士になれなかったと言われております。
キングダムの世界観からすると考えられないことですね。

では、誰が兵士になっていたかといいますと、貴族のご子息や農民でも地主など身分の高い人だけが兵士になれました
なぜかと言いますと、春秋時代にはもちろん戦がなかったわけではありませんが、キングダムで描かれているような大規模な戦争はほとんどなく、兵士といってもどちらかといえば、守備隊のようなものでした
史実上、実態がしっかり分かっているわけではありませんが、おそらく、ファンタジーアニメで出てくる街の中で威張り散らしているあの兵士のような感じだったのではないかと推測しております。
なんにせよ、身分の高い人しか兵士になれなかったので、春秋時代の軍の規模は比較的小さく、1国が持っている軍事力は多くて2,3万程度といわれているのが実際のところです。

『戦国時代』の兵役事情

しかしながら、戦国時代に入ると状況はうって変わりまして、みなが王を名乗り、その名の通り戦乱の世となりましたので、必然的に軍や戦争の規模も大きくなっていったわけです。
各国はこぞって兵役義務を拡大したり、徴兵制度を新たに導入したりするわけなんですが、どうもうまく機能しなかったようです。
様々な理由が議論されていますが、例えば、軍は元々高貴な人たちにより構成されていましたので、なかなか農民の従軍を認められなかった国もあったようです。

キングダムを見て頂ければわかると思いますが、秦軍では結構ボロ着の農民兵がたくさん描かれてたと思いますが、趙軍や魏軍はどうでしょうか。
全員が日本でいう士族のようにしっかり甲冑をまとい、訓練を受けているような兵士しか描かれていなかったと思います。
原先生はもしかしたら、史実に基づき、趙や魏は農民兵をうまく扱えなかった前提で軍隊を描かれたのかもしれません。

もう一つ、一部界隈で議論されている内容があり、秦国以外の国の農民兵は基本的にやる気がなくて、もとより全く使い物にならなかったという説があります。
そういった農民兵は戦う前に少しでもやばそうだと感じたら、すぐに逃げてしまい、重要な前線を任せることが出来なかったというわけです。

それでは、なぜ、秦国は、農民兵をうまく扱うことができたのでしょうか
これには秦国の兵役に関する制度が大きく関わっております。

秦国における兵役について

まず、秦国における兵役ですが、一説では15歳から60歳までと言われてます。
その当時の平均寿命を考えると、男子はほぼ全員が兵士ということになります。
いやいやと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これがあったからこそ、秦国は6か国を同時に相手にするだけの戦力を保有することができたわけです。
もちろん何もしなかったら、先ほど説明した、やる気のない農民兵が大量発生して、他国同様、いくら数がいても使えない軍隊になってしまうんですが、秦国はある2つの大きな施策をもってその状況を打開しました。

1つ目は・・・

能力のある人間は、農民だろうが他国の人間だろうが関係なく重用したと言われております。
重用にはキングダムでもおなじみの爵位が用いられ、能力のない人間は例え、貴族であろうが爵位が落とされる仕組みとなっておりました。

2つ目は・・・

功をあげたものには必ず、財貨をもってそれに答えたという話がございます。
キングダムでよく出てくる、『これより、論功行賞を執り行う!』というやつですね。
あれは史実でも実際に行われていたと言われています。

秦国では、この2つの制度があったからこそ、農民兵も他国と違い、やる気を出して戦っていたというわけです。

ただし、今はいいことばかり言いましたが、逆もまたしかりで、あまりに功績を残さない農民はすぐに奴隷落ちしたとも言われているので、まさに命がけで戦っていたんだろうなと誠勝手ながら想像しております。

この秦国で行われていた、功をあげたものには必ず報い、罪を犯したものには厳罰を与える行為を一般的に『信賞必罰』などと言われたりもしますので、是非頭の片隅にいれておいてください。

結論

春秋戦国時代、下僕から将軍に成り上がることは可能だったかについて、残念ながら、信のような下僕の少年が大将軍にまで成り上がったといった逸話や、信のモデルとなった『李信』が実は下僕出身だった、などという史実は、存在しませんが、秦国の制度をみるに、とてつもなく優秀な下僕が仮にいたとして、さらにその下僕がとてつもなく幸運に恵まれていたとすれば、あるいは、将軍になる道もあったのではないかと、個人的には考えてます。

キングダムの作中で魏の将軍『廉頗』の配下『輪虎』がいったセリフ『そして本当に天に寵愛される武将は一握り』はまさにこのことを指してるんじゃないかなと漫画を読みながら、誠勝手ながら原先生に感銘を受けた次第であります。

エピローグ

今回は、秦国における『信賞必罰』の考え方について、史実を交えながら解説してきましたが、実はこの考え方がまさに秦軍を強くしたという話もあったりするので、今後のブログでまた出てくるお話になるかもしれません。

次回につきましては、みなさんが本当に存在したのか疑問に思っている『山の民』の秘密について解説していきたいと思います。(なぜ仮面をつけているのか?など・・・)

キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#3 誰も知らない豆知識・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

キングダム徹底解説(玄人編),キングダム豆知識中国史,咸陽,城戸村,太原,嬴政,,漢陽城,,秦麗山脈,蛇甘平原

みなさんこんにちは!
キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
2024年夏にとうとうキングダムの新作アプリが登場するということで、その名も『キングダム頂点(ITADAKI)』と言います。
もしかしたら、私が運営しているYoutubeチャンネルでゲーム実況なんてやっちゃうかもしれません笑。

さて、今回は『【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国時代の地理(玄人編)』と題しまして、みなさん意外と知らない春秋戦国時代の地理的な豆知識(例えば咸陽の地形や城戸村の位置)などについて解説していきたいと思います。
キングダムのストーリーの中には、地理的な知識が前提となっているシーンもちらほら散見されることから、今後キングダムをより楽しむためにも、是非最後までご覧いただけたら幸いです。

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咸陽の地形について

現在の咸陽市については、たくさんの高層ビルが立ち並ぶ大都市となっております。
人口は500万人を超え、中国の中でも比較的大きい都市と言えるのではないでしょうか。

一方でキングダムで描かれている咸陽は、広大な平野の中にぽつんと聳え立つ、高い城壁に囲まれた要塞都市となってます。
残念ながらその当時の咸陽城は秦が滅亡する際に、漢に焼き払われたことから、実際の風景は遺物から推察される想像上のものとなりますが、華やかなものであったことは間違いありません

咸陽の地形については、過去のブログでも少し触れましたが、周囲を高い山々が囲み天然要塞として名高いわけですが、あまり注目されてない下の方(地面)はどんな感じになっていたのでしょうか?

実は咸陽は地質学的に超特殊な地域となっておりまして、ものすごく分かりやすくいうと段々畑のような地形になっていたと言われております。
決して平坦な荒野のような地域ではありませんでした。

その当時の記録は残っておりませんが、現在では、咸陽の中で一番高い地域は海抜1,885m、低い地域で海抜362mとなっており、これは山岳地帯だからという理由ももちろんありますが、ある特殊な土のせいでもあります。
黄土と言われている土で、その名の通り黄ばんだ砂が堆積したものですが、中国北西部の砂漠地帯から風に巻き上げられた砂塵がこの地に降り積もり分厚い黄土の層を作りました
黄土は基本的には固い土なのですが、水には非常に弱く、雨や洪水のあとには、ぐにゃぐにゃとなり、それが固まって、でこぼこの地形を作ったと言われております。

すなわち・・・

咸陽の周りの地形は、キングダムで描かれているような平坦な荒野ではなく、黄土高原と呼ばれている高低差の激しいでこぼこした地形だったということになります。

この事実も咸陽城が不落の城と位置付けられた一つの理由だと、ブログ主は考えております。

咸陽の気候について

キングダムの中では、四季はあまり描かれていないように感じますが、咸陽の実際の気候はどのようなものだったのでしょうか
約2,500年前なので、当然現在の気候とは違うものだとみなさん思われると思いますが(現代の地球は温暖化と言われてますので)、実は過去の地球では現代よりも気温が上昇した時代がありました

とはいえ、約2,500年前は地球全体が寒冷期と言われており、現代よりも2,3度は気温が低かったのではないかと推測されてます。
現代の咸陽は夏で最高気温が32度程度、冬で最低気温が-3度程度ですので、キングダムの時代の咸陽の冬は結構雪が降るような世界観だったんじゃないかなーと個人的には考えております。

ちなみに・・・

日本の中で、その当時の咸陽の気候に一番近そうな地域を探してみたら、現在の緯度よりも少し北側で、山に囲まれた盆地になりますので、『山形(山形盆地)』がそれに当てはまるのではないかと思います。
現代の山形に住んでみたら、もしかしたらその当時の咸陽の気分を若干味わうことができるのかもしれません笑。

ちなみに秦国は南北に長い領土を持っていたことから、例えば、北方にある『太原』などは豪雪地帯だったに違いありません

また、次の単元でも出てきますが、おそらく太原よりもさらに北にあったであろう『城戸村』については、もはや北海道並みの気候だったと推測されますので、信と漂のあのかっこうはもはや正気の沙汰ではなかったとブログ主は勝手に考えております。

城戸の位置について

『城戸村』の正確な位置についてはもちろん公表されておりませんので、推測の域を脱しませんが、キングダムの作中の情報をもとにすると、ある程度『城戸村』の位置を特定することができます

特定に必要な情報は次のとおりです。

①趙および魏との国境に近い
②大きな川が近くに流れている
③遠くに山楽と荒野が見える。

①趙および魏との国境に近い

まずは、①ですが、キングダムのアニメ第1話で、信と漂が歩いていける距離感の位置で趙と秦が小競り合いをしているシーンがありました。
この時期に趙が秦の領土を脅かしたなどの史実はありませんので、当然国境付近で戦っていたと思われます
つまり、城戸村から趙と秦の国境には歩いていける距離ということになります。
ちなみに趙と秦が隣接している地域は北東側にしかありませんので、必然的に『城戸村』は秦の北東部にある村となります。
さらに、国境に近かったかは分かりませんが、信が初めて戦場に出る『蛇甘平原の戦い(魏と秦の戦い)』では、『城戸村』からも徴兵されていましたので、徴兵できる距離感に『城戸村』はあったことになります。

つまり、『城戸村』は秦の北東部の中でも魏に近くないといけませんので、南側ということが分かります。

②大きな川が近くに流れている

次に②ですが、こちらもキングダムの序盤になりますが、信と嬴政が出会った小屋の近くには大きな川が流れていました
秦の北東部にある大きな川といえば、これは当然黄河となります。
さらに途中で川が分岐していた描写もありましたので、黄河の支流が存在する地域と考えられますので、これだけでも『城戸村』の位置はそうとう絞り込むことができます。

③遠くに山楽と荒野が見える。

最後に③なんですが、城戸村から見ると、山がすぐ近くにあるというよりは、遠くにうっすら見えるような描写となっておりました。
咸陽を囲む秦麗山脈だと思ってますが、秦麗山脈はある一定距離北東に伸びて行って、そこから太原を超えると開けた荒野となっております。

城戸村の位置は・・・

すなわち、ここまでの情報を全てくみ取ると、『城戸村』は、秦の北東部、太原よりもさらに北に位置し、趙の国境付近で黄河の支流がある地域となり、現代の地図でその近辺を探してみると『城戸村』に極めて近い名前の村が存在します。

その名も『城壕村』といい、もちろん偶然かもしれませんが、あまりの名前の酷似に、ブログ主としては、原先生はここから『城戸村』と命名したのではないかと勝手に推測しております。

エピローグ

このように地理的な観点からキングダムをみていくと、また違った楽しみ方ができるのではないかと思い、今回、僭越ながら少し玄人向けの解説をさせていただきました。

次回につきましては、春秋戦国時代において、『下僕から将軍になることは本当に可能だったのか?』について考察していきたいと思います。

キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#2 誰も知らない豆知識(城戸村)・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

2024年4月11日キングダム徹底解説(玄人編),キングダム豆知識中国史,中華統一,史記,,咸陽,城戸村,嬴政,戦国七雄,戦国策,春秋戦国時代

みなさんこんにちは!キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
アニメ5期(黒羊丘の戦い/桓騎vs紀彗)も終盤となっておりますので(このブログが公開されたタイミングでは終わってるかも・・・)、なかなかエキサイティングできる内容だったのではないかと思っております。

アニメが原作に結構追いついてきているので、アニメ6期については、2025年かな、などと勝手に考えております。

さて、今回は『【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国(玄人編)』と題しまして、前回ブログで説明した内容から、さらに掘り下げまして、誰も知らないようなニッチなネタ(豆知識)を解説していきますので、是非最後までご覧いただければと思います。

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キングダムオープニングナレーションについて

まずはこちらをご覧ください。

『古代中国。聖者の時代は終わりを告げ、人間の欲望は解放されていた。戦乱の嵐が500年にわたって吹き荒れ、100を超えた国々は7つに淘汰された。』

アニメ『キングダム』でおなじみの最初のナレーションですね。
一遍普通の文章が並んでるようにも見えますが、前半部分によくよく見てみると意味不明なキーワードが存在することに気付きます。

『聖者の時代』こいつですね!
実は漫画ですと、『聖者の刻』といった表現になってたりするんですが、『聖者の時代』とは一体何を指している言葉なのでしょうか?

今回はこちらをテーマに春秋戦国時代を解剖していきたいと思います。
『聖者の時代』を理解するためには、まずは春秋戦国時代の時代背景をより深く考察する必要があります

春秋戦国時代よりも前の時代について

春秋戦国時代をより深く理解しようとした際に、その前後にある時代も含めて考察するというのは1つの方法だと思います。
ちなみに学生時代に世界史を履修されている方には懐かしいお話になってしまうかもしれませんが、古代中国における時代遷移は次の通りです。

(紀元前2070年~1600年)→(紀元前1600年~1046年)→(紀元前1046年~770年)→春秋戦国時代(紀元前770年~221年)』そして、の時代を経て、三国時代へ突入していきます。

夏よりも前の時代については、もはや中国の神話に基づいた時代とされていることから、ここでは割愛させていただきます。
そして実はという話にはなりますが、上記で紹介した『夏』という王朝については、歴史家の中でも存在したかしなかったかで、論争が起こっている王朝になります。
結論からいうと、中国はあったと主張していますが、日本含め諸外国の歴史家は認めていない王朝になります。

ちなみに・・・

何がなされれば、王朝として存在が証明されるのかという話なんですが、出土した遺物(物的証拠)歴史書(史記など)に記載された内容がどのような形でもいいので一致して初めて存在が認められます。
残念ながら『夏』については、書物の中には登場するんですが、遺物として明確に紐づけられているものがないので、伝説の王朝扱いとなっているわけです。
※殷は出土した遺物に書かれてあった王の名前と史記に書かれている王の名前が一致したことから、実在の王朝として認定されました。
※また、ネット上では『殷(商)』という表記を見たことがある方がいらっしゃるかもしれませんが、これは中国において、王朝の名前を、創始者の王がどの地に封じられた(領地として治めていた)かで決めるというルールを設けており、『殷』の創始者は『商』という地に封じられたことから、実際には『商』が正しい王朝名となります。

さて、既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、古代中国における時代の名前は基本的に、その当時中華を治めていた王朝や国の名前から取られています
なぜか、『春秋戦国時代』は前回ブログでも解説しましたが、『春秋』『戦国策』という2つの歴史書の名前から取られているわけです。

『春秋戦国時代』が、他の時代と違って、特別な呼称を与えられている理由はなんなのでしょうか
次の章で解説していきたいと思います。

春秋戦国時代の名前が歴史書から取られている理由

結論から申し上げますと、非常にシンプルな理由になっておりまして、名前をつけるだけの王朝が実質存在していなかったからなんですね。
なにせ春秋戦国時代は、キングダムの世界でもおなじみの『戦国七雄』がしのぎを削っていた戦乱の時代なので、王様はある意味たくさんいらっしゃいました
キングダムの主人公『嬴政(第31代秦王)』もその1人になります。

一応『周』という、春秋戦国時代の1つ前の時代にあった王朝はそのまま存続はしていたんですが、自分に仕えていた一諸侯に戦争で負けたことで実質的な支配権を失いました
この瞬間、ある意味ですが『周』も戦乱の世における一国に成り下がったというわけです。

ちなみに・・・

ちなみに一国に成り下がった『周』も春秋戦国時代の中で慎ましく生きていたんですが、紀元前249年(キングダムの始まる4年前)にかの有名な秦の宰相『呂不韋』にとうとう滅ぼされてしまうんですね。
『周』は春秋戦国時代に入ったタイミングで内紛が起こり、本家の『西周』と分家の『東周』に分裂しております。呂不韋が紀元前249年に滅亡させたのは分家の『東周』の方であり、実は本家の『西周』は既に紀元前256年に、かの有名な六大将軍『摎』に攻められ実質的に滅亡しています。

原先生がキングダムの中で『周』を極力描かないようにしているのは、もちろん『嬴政』『信』を主人公としたため、年代がズレているからというのもありますが、それよりも、『周』が一応王朝として中華を支配しており、この本家・分家の話がややこしすぎたんで描かなかったんじゃないかなーと勝手に予想してます。

聖者の時代(キングダムopナレーション)の意味について

そろそろ本題に入りたいと思います。

聖者の時代についてですが、ナレーションの文章を解読すると、とりあえず春秋戦国時代の前の時代を指していることが分かります。
となると年表から察するに『周』の時代ということになるかと思いますが、周の時代は聖人君主が闊歩した時代だったということなんでしょうか

もちろんそれは違います。
周の統治の方法は、『封建制度』と呼ばれているもので、諸侯に対し、全体権力者である『周』がある一定地域の統治権を認めることで、諸侯たちがそれぞれの領地を治めることで成立していました
この制度のおかげで、春秋戦国時代と比較すると、直接、戦争などで領地を取り合うようなことは起きづらかったのではと考えられてます。

それでも、諸侯たちは少しでも自分の利権を増やすために、『周』に色々な献上品を渡したり、隣国と戦争したりはしていました。
とても聖者と言えるような方々ではなかったと思います。
しかし、そんな彼らですが、現在の歴史研究では、実はとある理論(宗教)を信奉していたのではないかと言われています。

それがこちらです。

『一族郎党皆殺しは絶対に行ってはならない。
一族郎党皆殺しを行ったものは末代まで呪われる』

その後の中国の歴史を考えるとにわかには信じがたい理論にはなりますが、この考え方があったからこそ、国の数が100を超えたという風に言われております。
(ナレーションでもしっかりその点には触れられてます。)

したがって、『聖者の時代』とは、周の時代、人々が『一族郎党皆殺し』を禁としていた時代、仮に戦争をしたとしても、最後は殺さずに人を生かした時代を指していたというわけです。

原先生はキングダムの中では『周』について一切触れておりませんが、ナレーションの冒頭で、直接的な国名は出していないものの、明らかに『周』を意識した単語を出すことで、『周』のことは当然理解しているとメッセージ発信されているので(と私は考えておりますので)、これはさすがと言うほかありません!!
そんな原先生の描くキングダムも当然、考察しがいのある深いストーリーなんだろうなーと勝手に確信している次第です。

エピローグ

今回のお話はここまでとさせていただいて、次回『咸陽』『城戸村』を中心に春秋戦国時代を『地理的』な側面から解剖していきたいと思います。
キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#1 誰も知らない豆知識・小ネタ※史実(春秋戦国時代)