みなさんこんにちは!
キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。
世間ではキングダムの実写映画『大将軍の帰還』が盛り上がっている中だと思いますが、個人的にはアプリゲーム『キングダム頂点(いただき)』が8/8にリリースされることとなりましたので、そちらに注目がいっている状況です。
一応リリースされたら自身のYouTubeチャンネルで生配信をやってみようかなーと思っている今日この頃です。
さて、今回は、みなさんも大好き『楊端和(ようたんわ)』率いる『山の民』について徹底解説していきたいと思います。
『山の民は実在するのか?』みたいなミーハーな内容ももちろん解説していきますが、こちらのブログは非常にニッチな内容を取り扱っておりますので、『山の民はなぜ仮面をつけているのか?』にも言及していきたいと思います。
こちらのブログを見て頂ければ、今後よりキングダムを楽しんでいくための予備知識がどんどんつきますので、是非最後までご覧いただけたら幸いです。
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山の民のモデルについて
山の民のモデルを語るにあたり、キーマンとなるのが、キングダム作中でも出てくる、『穆公(ぼっこう)』という、史実にも実在した秦国の王様になります。
ちなみに、『穆公(ぼっこう)』は第9代秦王で嬴政は第31代秦王なので、嬴政の22代前の秦王ということになります。
年代でいうとキングダムから約400年前の人物ですかね。
この穆公が仲良くしていた異民族が山の民のモデルとなっております。
山の民のモデルの異民族について
この異民族の正体なんですが、秦の西側に住んでいた『西戎(せいじゅう)』と呼ばれる遊牧民で、その中でも、山の民のモデルとなったのは、咸陽から数十キロ西の『岐山』という地域に住んでいた数百人程度の部族と言われております。
もちろん最初から『穆公』と仲が良かったわけではなく、この部族と『穆公』の間には語り継がれる面白いエピソードがあります。
その名も『岐下食善馬者三百人』と言います。
せっかくの機会ですので、『岐下食善馬者三百人』のエピソードについて簡単に解説したいと思います。
『岐下食善馬者三百人』のエピソードについて
かつて繆公は、愛馬を見失ったことがありました。
見つけた時は、山の麓に暮らす者たちが、繆公の愛馬を捕まえて、皆で食べてしまったところでした。
その数三百人。
役人が捕らえて罰しようとすると、
繆公は「君子は畜生を殺されただけで人を傷つけてはいけない。余は善馬を食べてよい酒を飲まないと健康を損ねると聞いている」
と言って、三百人全員の罪を赦し、逆に馬肉に合う酒を振る舞ったそうです。
このことを恩に感じて、この三百人の部族は、その後、秦軍に従軍するようになり、繆公が窮地に陥った韓原の戦いという戦争では、命を投げうって繆公を助けた…
ということで、これが山の民のモデルとなっております。
山の民と命名した理由について
これまでの説明で分かったと思いますが、『山の民』のモデルは岐山に住んでいたあくまで『遊牧民族(西戎)』ですので、あえて原先生が『山の民』と命名したのには少々疑問を感じざるを得ません。
これは推測も交えてになりますが、まず岐山という地域、地名に山が入ってるだけあって、どちらかというと山岳地帯になります。
もちろん平地の方が多いんですが、南の方にいくと秦麗山脈と呼ばれる海抜2,000m級の山々がひしめいております。
おそらくキングダムで描かれていた『山の民』の居住地はこの秦麗山脈内にあったのだろうと予想されます。
とはいえ、遊牧民族が平地でなくあえて山に住んでいたというのはやはり謎が残りますので、こちらについては、岐山は基本的に秦の支配地域でしたので、よその部族が普通の場所に住むことは許されなかったのだろうと考えております。
それでなくても山の民のモデルとなった部族は秦王『穆公』に対して無礼を働いた人たちですので、厳しい山岳地帯に追いやられたとしても全く不思議ではありません。
それでも秦王に何かあったらすぐに駆け付けることができる岐山に住んだというのは、『山の民』の『穆公』に対する忠誠心の表れだと私は考えております。
山の民が仮面をつけている理由について
キングダムに登場する『山の民』ですが、みなさん顔が見えない様に、謎な仮面をつけてますよね。
もちろんこちらも原先生の気まぐれではなく、何かの逸話をモチーフにした設定だと考えられます。
これから紹介する逸話は、これが山の民の仮面のモチーフと断言できるものではございませんが、非常に関係性が疑われる逸話ですので、是非お読み頂きたく思います。
本来はすごく長い物語なんですが、ブログという性質上、重要な部分だけを切り取ってまとめさせていただきました。
仮面のモチーフとされる逸話について
『西戎(せいじゅう)』の中には秦から追われた一族の逸話が残っております。
その名を『羌族(きょうぞく)』といって、この『羌族(きょうぞく)』を率いていたリーダーの名前が『無弋爰剣(むよくえんけん)』といいます。
逸話では、無弋爰剣は元々、秦の奴隷だったんですが、逃げる際に岩窟に逃げ込んで難を逃れたと言われております。
また、無弋爰剣は岩窟の外に出た後、鼻を削がれた女と野で出会い、夫婦となったと言われており、この女はその容貌を恥じて髪の毛で顔を隠していたため、後に羌人はこれを風習としたそうです。
山の民のモデルとなった部族
おそらく、山の民のモデルとなった部族は、ただの『西戎(せいじゅう)』ではなく、その中でも『羌族(きょうぞく)』だった可能性が高いんじゃないかなと考えております。
『羌族(きょうぞく)』は上記逸話のとおり、風習により顔を髪で隠しておりましたので、それを普通に表現すると『貞子』になってしまうので、原先生は仮面をつけるという表現に変えたんではないかなと個人的に推測しております。
さらにいうと、山の民の王『楊端和』をあえて女性として描いたのは、この逸話の元となったのが女性だったから、なんて話ももしかしたらあるかもしれません。
※いつか原先生にお会いする機会があったら聞いてみたいです。
エピローグ
今回は、『山の民』の徹底解説として、『山の民』のモデルとなった遊牧民族、原先生が遊牧民族を『山の民』と命名した理由、そして、『山の民』が仮面をつけている理由について解説してまいりました。
これだけ知ってれば、山の民のことはマスターしたも同然だと思います!!
次回につきましては、信の初陣となった『蛇甘平原の戦い』は史実上存在したのか?について考察していきたいと思います。
『蛇甘平原の戦い』は一般的には、史実上、存在しない戦いとされていますが、その当時の史実における前後関係を考えると、なかったとも言えない戦いだったと個人的には考えております。
キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)
それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)