2024年4月18日キングダム徹底解説(基礎編),キングダム豆知識中国史,中華統一,函谷関,咸陽,四夷,城戸村,無国籍地帯,王騎将軍,,秦王

みなさんこんにちは!キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
とうとうアニメ5期も終わりまして、個人的には衝撃的な終わり方をしたなと思ってます。
あのような秦と斉の密会は本当にあったのでしょうか
(なんて話もいつかブログでやっていきたいと思います笑。)

さて、今回は『【徹底解説】キングダムから学ぶ春秋戦国時代の地理(基礎編)』と題しまして、みなさん意外と知らない春秋戦国時代の地理的な豆知識(例えば咸陽が不落の城と言われた理由など)について解説していきたいと思います。

キングダムのストーリーの中には、地理的な知識が前提となっているシーンもちらほら散見されることから、今後キングダムをより楽しむためにも、是非最後までご覧いただけたら幸いです。

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秦の位置について

春秋戦国時代の地図については、様々な説が存在します。
なにせ戦乱の世ですので、刻一刻、国境が変わったりするわけです。
さらにいえば、現代のように国際法があるわけでもないので、秦の抱えている地図と趙が抱えている地図とでは、領土の広さが違ったりするわけです。

ただし、比較的分かりやすく説明するのであれば、黄河の西側が『』、黄河の東側に『』『』『』が縦に並んでおり、そのさらに東に『』『』、そして、これら6国を支えるかのように南側に大国が控えている感じです。

個人的には、春秋戦国時代には固定された国境という概念はなくお互いの軍がにらみ合っている場所が国境であり、軍が押し込んだり、押し込まれたりすることで、国境は絶えず変化していたのではないかと推測してます。

ちなみに秦よりもさらに西側はどうなっていたかというと、異民族が生活しておりました。所謂、『東夷(とうい)』『北狄(ほくてき)』『西戎(せいじゅう)』『南蛮(なんばん)』(総称:四夷)と呼ばれていた遊牧民族でして、キングダムでいうと『戎翟公(じゅうてきこう)』などがこちら出身と考えられます。
中華の歴史においては、『四夷』は野蛮人として蔑まれていましたが、最新の研究では、『四夷』の方が、中華の国家よりも文明が進んでいた可能性が示唆されており、もしかしたら、キングダムの時代に西側諸国ではもっと高度な戦いが繰り広げられていたのかもしれません。

もし仮に西側諸国の文明が中華よりも進んでいたのならば、中華西端に位置していた秦は、他の国よりも一早く、強力な武器や戦術を手に入れることができたと思いますので、戦国七雄の中で圧倒的に強かった理由にも頷けます。

秦の首都『咸陽』の立地条件について

秦の首都『咸陽』はキングダムの作中でも不落の城として紹介されております。
これは城壁が高いとかそういうことではなくて、周囲の地形に秘密がありました。
実は、秦麗山脈と呼ばれる、海抜3,000m級の山々が『咸陽』を取り囲んでおり、攻め側からすると、一方向(東側)からしか『咸陽』を攻めることが出来ませんでした。
そしてその東側にかの有名な『函谷関』が聳え立っていたことから、守る側が有利となり、不落の城の完成というわけです。

正確に言うと、秦の関所東西南北、『函谷関』以外にも『武関』『散関』『蕭関』というものがありましたが、山の中だったり、地形的に大軍が行軍できる環境になかったため、大規模な戦闘は必ず『函谷関』で行われていたということになります。
(キングダムでも描かれていましたが、大規模でなければ、南側の武関から抜けられたことは何度もあります。)
実際のところは秦麗山脈だけでなく、秦の国境付近は軒並み高い山がひしめいており、秦は全体的に、高い山に囲まれた盆地の国と思っていただければ、イメージに近いと思います。

ちなみに『咸陽』は元から秦の首都だったわけではなく、紀元前350年に、その時の秦王『孝公(第25代)』が櫟陽(れきよう)から遷都したことで首都となりました。
他の国の首都に比べると比較的新しい時期に建築されたことから、城壁や城内の設備も華やかだったと言われております。

咸陽から国境までの距離について

キングダムでよく他国が国境を割って侵入してくるシーンがありますが、国境から咸陽まで大体何キロくらいあるかみなさんご存じですか。
ちなみに『函谷関』から首都『咸陽』までは、直線距離で約200km程度あります。

春秋戦国時代には完璧な地図が存在しないことから、推測にはなりますが、一番近い国境からでも、首都『咸陽』までは、最低でも300kmはあったと思われます。
その途中に山々があり、それを避けながら行軍しなければならなかったことを考えると、首都を攻めようと思ったら、それなりの準備と資源が必要になるはずですね。
逆もまたしかりで、キングダムの作中の描写で、首都『咸陽』から王騎将軍が悠々と出陣するシーンがありましたが、あそこから300km以上も行軍するとなると、果てしなさを感じます。

そして、キングダムをよくよく観察してると、王騎の咸陽からの出撃シーンは全員騎馬隊でしたが、例えば、アニメ5期の黒羊丘の戦いにおける紀彗軍の出撃シーンは歩兵がかなり混ざってましたので、もしかしたら、原先生は地理的な距離感をしっかり把握したうえで、出撃シーンを描いているのかもしれません。(だとしたら恐るべし!)

エピローグ

このように地理的な観点からキングダムをみていくと、また違った楽しみ方ができるのではないかと思い、今回、僭越ながら基礎的(一般的)な知識を解説させていただきました。

次回につきましては、玄人編として、『咸陽』の気候や、『城戸村』の位置などについて解説していきたいと思います。キングダムをより楽しむため、春秋戦国時代をもっと勉強したいという方、是非次回のブログも見て頂けると嬉しいです。(きっとここにしかない情報が満載です!)

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#2 誰も知らない豆知識(城戸村)・小ネタ※史実(春秋戦国時代)

2024年3月24日キングダム徹底解説(基礎編),キングダム豆知識中華統一,,史実,史記,,嬴政,戦国策,春秋戦国時代,無国籍地帯,王騎

みなさんこんにちは!キングダム解剖アナリストの『きまねこ』です。

アニメ(漫画)『キングダム』みなさん楽しんでますか?
漫画は既に71巻が発売されている状況ですが、まだ1国も滅んでいないという、まさに驚愕の事態に陥ってます。
ちなみに、史実上の時系列を考えると、大体3分の1が過ぎたといったところなので、もしかしたら200巻くらいは続くのかもしれませんね。

今回は【基礎編】キングダムから学べる春秋戦国時代と題しまして、キングダムで描かれている時代の時代背景や小ネタ·豆知識の基礎編(一般知識)を解説していきたいと思います。

次回は【玄人編】と題しまして、春秋戦国時代をさらに掘り下げて、誰も知らないようなニッチな情報も取り扱っていきたいと思いますので、是非次回のブログも併せてご覧頂ければと思います。

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キングダムの時代背景(春秋戦国時代)

キングダムはみなさんもご存じ、春秋戦国時代における『秦』の中華統一戦争を描いた物語になります。
一般的には秦が中華統一を成し遂げたら終わりと思ってらっしゃる方も多いかと思いますが、原作者の原先生は、とあるインタビューで統一後の『嬴政』についてもしっかり描くと名言されておりました。
そんな春秋戦国時代ですが、一般的に、周が都を洛邑(成周)へ移した紀元前770年から、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代とされております。信と嬴政が出会ったのが紀元前245年であることから、キングダムの世界は春秋戦国時代の中でも末期の末期を描いたものとなります。

ちなみに、余談ですが、春秋戦国時代は大きく分けて『春秋時代』と『戦国時代』に分けることができ、一般的に紀元前770年から紀元前403年を『春秋時代』紀元前403年から紀元前221年を『戦国時代』と呼んでおります。(どこを区切りにするかについては、実は7説くらい存在します・・・)
当ブログ管理者としては、三晋(韓・魏・趙)が周により正式に諸侯に認められた年を春秋時代の終わりと捉えております。

先ほどから『周』という国を何度か登場させておりますが、『周』は秦が中華統一戦争を始める前に中華全体を治めていた王朝となります。
では、『周』が秦の前に中華を統一していたのかと言いますと、これはちょっとニュアンスが違いまして、『周』は周辺各国と主従関係を結ぶ、いわゆる封建制度を敷いていた王朝なので、支配はしていたものの、統一はしていなかったというのが正確な見方になります。(キングダムでは、この辺りを説明するとややこしくなるので、周の存在はあえて伏せているようにみえます。)
さらにいうと、中華統一後の秦の支配地域は、周が治めていた土地よりも広いことから、あくまで中華全土を初めて統一したのは『秦』ということになります。

春秋戦国時代の名前の由来

春秋戦国時代の名前の由来については、2つの歴史書から取られています
『春秋』と『戦国策』と呼ばれている歴史書です。
この2つの書物に描かれていた時代がちょうど春秋戦国時代だったことから、このように名づけられました

歴史書『春秋』とは

せっかくの機会ですので、この2つの歴史書に纏わる小ネタを解説しておくと、『春秋』は、かの有名な『孔子』が制作に関与したとされており、文章は1行1行短く、年表のような書物になってます。
しかしながら、歴史家の中では非常に貴重な書物とされており、なにせ『孔子』が制作に関与している歴史書なので、『春秋』から孔子の思想が読み解けるんではないかと、『春秋学』などといった学問が発生したりしてます。

歴史書『戦国策』とは

一方で、『戦国策』は、名前の通り戦国時代の乱世を遊説して回った小説のようなもので、この時代の歴史書にしては、常にしっかりとした文章で書かれていることが特徴としてあげられます。

歴史書『史記』とは

歴史書繋がりでもう1つ紹介しておくと、春秋戦国時代において一番参考となる書物が司馬遷の書いた『史記』になります。
キングダムの中でも度々この『史記』が取り上げられておりますので、名前をご存じの方は多いかと思います。
キングダム展等に行くと、原先生が実際に使用していた『史記』が飾られており、付箋や書き込みぎっしりされているので、原先生の研究熱心さを垣間見ることができます

歴史書を読み込んで描かれているキングダム

ちなみに、『史記』『戦国策』を実際に読んだことがある方であれば、すぐに気付くことではありますが、キングダムのストーリーには『史記』に描かれていない内容も多々出てきておりますので、おそらく原先生は、春秋戦国時代に纏わる歴史書はのきなみ読み込んでいるのではないかと思っております。
少なくとも『戦国策』については、そうとう読み込まれていること間違いなしです。

春秋戦国時代の日本はどんな感じだったか?

中国における春秋戦国時代は、日本における『弥生時代』に当たります
すなわち、稲作が盛んになった時期で、集落などはあったものの、しっかりした国は存在しない時代となります。
日本でクワを振り上げていた時代に、お隣の中国では信みたいな武将が甲冑をきて馬に乗り、剣や盾を振り回していたわけですから、えらいこっちゃって感じですね。

ちなみに、日本の弥生時代に争いが無かったかというと、そういうわけではありません。
稲作には水がかかせませんので、水をかけた戦いなどは頻繁に行われていたようです。(武器で損傷した人骨がたくさん出土していることから、そのように推察されています。)
ただし、中国では万対万の戦いが当たり前でしたが、日本では1集落、大体100人程度だったと推測されていることから、せいぜい百対百の戦いに留まっていたと考えられます

ちなみに、キングダムの中で、実は日本の弥生時代をモチーフにした戦いがこっそり描かれています
王騎に初めてつけてもらった稽古で出てきた無国籍地帯ですね。
国などは存在しなく、100人程度の集落が無数に存在しており、生存権をかけて老若男女問わず戦いに参加していると・・・まさに日本でいう弥生時代ですね。

死ぬまでに原先生にお会いする機会がありましたら、あの無国籍地帯の平定の話は、日本の弥生時代をモチーフにしていたのでは?という点についてお尋ねしてみたいと思います。

エピローグ

今回は、春秋戦国時代の時代背景や名前の由来その当時の日本の状況について解説してまいりました
日本の状況を考えると、紀元前の世界でキングダムのような戦いが本当に行われていたのであれば、何かロマンめいたものを感じてしまいます。

次回のブログでは、春秋戦国時代をさらに掘り下げて、春秋戦国時代の前の時代や、その時代の中国の思想などにふれた内容を解説していきたいと思いますので、気になった方は是非ご覧いただければと思います。

それでは次回作でまたみなさんにお会いできることを祈りながら拝手
(キングダムで全員が当たり前のようにやってるあれですが、本当にあったのかは謎)

【キングダム解説/考察】#1 誰も知らない豆知識・小ネタ※史実(春秋戦国時代)